官軍と幕府軍の戦いの真相

慶応4年4月11日江戸城、無血開城の頃、義軍と称して幕府方の脱走兵などが、大鷲の妙性寺を根拠地として大鷲方面にしきりに出没している噂が立ち、8月8日朝、前橋藩の兵21名が、それらの者の探索を行い、成願寺をはじめ所々を訪ねて去った。

そしてその日の正午過ぎ、矢那方面から官軍の兵250名が来て、妙性寺を囲んだ。この隊長は、上総安房監察兼指揮と行政の長を兼ねた柴山典であり、地方の最高の役柄で幕府方脱走兵を探索しつつ討伐しており、牛久から急きょ、大鷲中島方面に脱走兵が屯(たむろ)しているという報告によりやって来たのであった。

正面から鉄砲をうちかけたが、まったく手応えなく静まりかえっている。入って調べると全く人影もない。すると怪火が忽ち(たちまち)本堂から起こり、煙天に漲り(みなぎり)地を舐め爆音銃声相和し、豪壮にして荘厳なる仏宇伽藍忽ち鳥有に帰しという軍誌の記述だが、実は怪火ではなく、官軍の火付け役役人が放ったものであった。

その後、官軍は上村の石井両家と澤田家に分宿して、付近民衆を會し厳かいする所ありて、翌朝飯野方面に向かって去った。


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